📖第3章 教皇の指令

📘目次


🌀ローマの再びの混乱

西暦574年、当時のローマ教皇ベネディクトゥス1世が死去し、次の教皇ペラギウス2世が即位。

その頃、イタリアは再び大混乱の渦中にありました。

⚔️ランゴバルド族と孤立するローマ

北から侵入したゲルマン系の部族ランゴバルド族が、ローマ市を包囲。
味方であるはずのビザンツ帝国(東ローマ帝国)はササン朝ペルシャと絶え間ない戦争中。

…ビザンツ帝国からの支援は届きませんでした。

ローマ市はかつての栄光の都でしたが、6世紀になると、ただ「古い遺産」の象徴となっていました。
大国と絶賛戦争中のビザンツ帝国にとって、ローマ市はもはや戦略的価値が低く、軍や財政を割く余裕がなかったのです。

🕊️教皇の外交使節として選ばれた男

教皇はビザンツ帝国の援助を求めるために、信頼できる外交使節(使徒)を必要としていました。

そのとき、白羽の矢が立ったのが――
大貴族でありかつての市政長官、そして現在は修道士となっていたグレゴリウスだったのです。

「コンスタンティノープル(ビザンツ帝国=東ローマ帝国の首都)へ行ってくれ。皇帝の心を動かせるのは、そなたしかおらぬ」

🌾修道士グレゴリウスの活躍

その当時、グレゴリウスは修道士でありながら持ち前の行政能力を活かし、
パンの配給」「孤児の保護」「疫病患者の救護」といった活動を教会組織の中心で指揮していました。

修道院の土地管理配給システムを整え、教会全体を動かしてローマ市の民衆を支えていたのです。

つまり、肩書きの「市政長官」では成し遂げられなかったことを、修道士の立場で実現してしまってたわけです。

修道院や教会組織にとって、グレゴリウスはすでに欠かせない存在になっていました。
だからこそ、グレゴリウスのコンスタンティノープル行きには
「断ってくれ」と周囲から反対の声も上がりました。

グレゴリウス自身も、修道士としての静かな祈りの日々を捨てて
再び世俗の喧騒に身を置くことには強い抵抗を感じていたようです。

🚶‍♂️静寂を捨てて、東方へ

しかし彼は、「ローマ市のためならば」と決意を固めます。
修道士の服を脱がず、修道士としての生活をできるだけ守りながら――
彼は東方の都、コンスタンティノープルへと旅立つのでした。

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