📖第4章 東の都

📘目次


🏛️東の都・コンスタンティノープルへ

ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の首都、コンスタンティノープル
それはローマ市とは違う、まばゆく、冷たく、官僚主義に満ちた都でした。

🌉もう一つのローマ、その姿

街を囲む三重の城壁は、まるで石の龍がとぐろを巻くかのように広がり、外敵の侵入を決して許しません。

城門をくぐれば、黄金のモザイクが天井を飾る大聖堂、光を反射する白い大理石の宮殿、絹の衣をまとった役人たちが行き交い、
異国の香辛料や宝石が市場に並ぶ――そんな光景が広がっていました。

ここはローマ市とは異なるもう一つの「ローマ」。
ラテン語ではなくギリシャ語が響く東方の帝都。

🕰️イスタンブールになるまで

因みにですが。
コンスタンティノープルは、後にオスマン帝国に滅ぼされるまで約1000年続きます。

長ぇ〜…。

そして、オスマン帝国が支配した時の名前が、なんとあの有名な「イスタンブール」

イスタンブールの名はその後、現在まで500年続いております。

めちゃくちゃ地形に恵まれた、天然要塞だったんですね。

👑皇帝マウリキウスの時代

話を戻しまして。

当時の皇帝はマウリキウス(在位582〜602)。
誠実で信心深い皇帝でしたが。軍事と行政に忙殺されていました。

宮廷には、数百人もの高官、秘書、財務官、軍人、神学者が並び。
東のササン朝ペルシャとの戦争や帝国財政の立て直し、さらには神学論争まで、多くの重大な課題が議論されていました。

ローマ市も昔は、東西合わせた栄光のローマ帝国における首都でしたが。今は西の辺境の街
ローマ市の優先順位は低かったでしょう。

🙏一修道士の6年間の叫び

グレゴリウスは、一修道士としての身なりのまま、
コンスタンティノープルの豪奢な宮廷に立ち。
ローマ市の現状と援助を訴えました。

6年間――。

グレゴリウスは訴え続けたのです。

一度は引いた行政の世界で。
訴えを後回しにされながら。
市政長官の時とは違い、粘り強く何度も何度も毎日のように。

6年間も!

しかし。援軍の要請を出しても、兵士はわずかばかりしか送られず、
物資の支援も十分ではありませんでした。

いくら訴えても状況はほとんど変わらず、
ローマ市から届く悲痛な知らせは増える一方。
その瞳には、次第に深い疲労と絶望の色が宿っていきます。

❓なぜ声は届かなかったのか

  • グレゴリウスは「修道士」の身で教皇から特命を受けて派遣された存在でしたが、彼自身はビザンツ帝国における公式の大使ではなかったこと。
  • ローマ教皇庁とコンスタンティノープルの宮廷の間には、教会の権威をめぐる対立(東西教会の溝の萌芽)があり、そのためローマ教皇側の要請がスムーズに受け入れられにくかった可能性。

加えてビザンツ帝国が戦争や財政などの内部事情を抱えていたこと。
そしてローマ市が既に、ただの辺境でしかなかったこと。

またしてもグレゴリウスの叫びは。
東の都コンスタンティノープルと時代の冷たい空気の中に吸い込まれ、
ほとんど響くことはありませんでした。

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