📚 目次
🎌 伊沢修二の誕生と時代背景
嘉永4年(1851年)。
日本はまだ江戸幕府の時代。
「黒船だー!なんっだあの馬鹿でかい船は!ぎゃー!」
…よりも少し前の事です。
伊沢修二は、信濃国高遠藩(現在の長野県伊那市高遠町) の下級武士の子として生まれました。
🏠 伊沢家の暮らしぶり
武士と言えばお金持ちなイメージがありますが、伊沢家は「下級武士」。
藩から支給されるのは、わずかな米と手当だけ。
修二の家も、母が内職をして家計を支え、父は役目の合間に子どもたちに読み書きを教えるような質素な暮らしでした。
贅沢とは無縁なお家柄です。
🍚 米
「…。米なん…?」
ってね。そう。給料が米。
聞いたことあります?〝米払い〟。
現代で
「今月の給料は!米払いでーす!」
って言われたら
「あら素敵。ハリセンのご用意は全員分あるのかしら?」
って強めのツッコミ入れたくなりますよね。
でも当時の武士の給料は、本当にお米でした。
お米そのものか、あるいは米を基準に換算したお金が支払われていたのです。
💼 武士の生活と身分制度
とは言え、伊沢家が「極貧」だったかと言うと、そうでもありません。
江戸時代において、お米は単なる「食料」ではなく「資産」としての意味合いもありました。
藩から支給されるお米は、家計を支える基盤。
余った分は市場で売れば現金になり、米相場の変動によって利益を得ることもできました。
また、武士には身分に応じた屋敷地が無料で与えられていました。
これは藩からの「貸与」に近いものでしたが、下級武士はその屋敷の庭先や空き地を畑にし、生活の足しにしていたのです。
なので伊沢修二の家は、
「贅沢はできないけど、細々とやっていける家庭」
といったイメージでしょうか。
👨👦 父の出世と時代の転換
因みに伊沢修二の父親は、とても優秀な人だったらしく。
時代の変わりという背景もあったとはいえ、幕末の高遠藩において、
「大目付(家老に次ぐ監査役)」という役職まで異例の出世をしています。
現代でいえば、
有名大学出のエリートではないどころか高卒なのに、実力で中間管理職まで昇進したお父さん
って感じかな?
やっかみとか嫉妬とか、いろいろあったでしょうねぇ…。
…ご苦労、お察しします。。
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