📖第11章 教育者へ

📚 藩命で東京からアメリカへ

藩名で東京からアメリカにまで学びに行ったのに、その藩がなくなってしまった修二。
約1年の留学から日本へ帰ってきてみれば、藩から支給されていた研修費用(学費や生活費)は打ち切り。
ほぼ無一文の無職の青年がそこにいました。

📖 東京での勉学

さすがに修二も、一旦実家へ帰って出直しかなと思ったら。
なんとそのまま、東京で勉学を続けたのです。

🏛️ 文部省との関わり

実は修二は、廃藩置県の前からアルバイト的に文部省へ出入りするようになっていました。

この頃、明治政府は
「富国強兵(金と筋肉で最強企画)」
「殖産興業(国民総ビジネスマン企画)」
とともに、
「国民教育(全国民スキルアップキャンペーン)」
の整備にも本格的に取り組み始めており、

1871年(明治4年)には文部省が新設。
さらに翌1872年(明治5年)には、日本初の近代的な教育制度である「学制(義務教育の前身みたいなやつ)」が発布され、全国に学校を整備し、子どもたちを教育する仕組みづくりが急ピッチで進められていきました。

修二は、この新制度の準備・整備に関わる文部省で、見習いのような形でお給料をもらいながら、業務に携わる機会を得ていたのです。

さすがは我らが大真面目学級委員長・修二!(メガネキラーン※当時メガネしてたか知らんけど)

💡 教育への信念

武士という身分が廃止され、使命や誇りの喪失に多くの人々が嘆く中──
修二は誰よりも早く、自身の使命の置き所を見定め、教育者としての一歩を踏み出していました

「優勝劣敗の世界において、各国互に相戦ふ武器は教育より外にない」

これは後年、伊沢修二が語った言葉です。
その言葉の背景には、彼自身が経験してきた激動の時代がありました。

黒船来航、お家騒動、大政奉還、戊辰戦争、版籍奉還、そして廃藩置県。

修二が育った世界は、どうしようもなく人々が争い、社会は引き裂かれ、喪失感に嘆き苦しむ──そんな時代でした。

旧体制が崩れ、日本は再び手を取り合い、立ち上がらねばならなかった。
その混乱の中で修二は、何が国を立て直す力になるのかを、必死に考え抜いたのでしょう。

そして彼が見い出したのは、武力(富国強兵)でも、経済力(殖産興業)でもない。まずはそれらを扱う人を育てる力──すなわち教育こそが、未来をつくる鍵であるという信念でした。

しかし今はまだ、その信念は形を成してはいませんでした。

➡️ 次なる留学

ここから修二は、2度目のアメリカへの留学。
そしてそこでの出会いを経て、歴史に残る教育者へとなって行くのです。

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