📖第12章 伊沢修二の師範教育調査

📚 修二、再び渡米

修二大学南校での学業を終えたのち
1875年(明治8年)文部省からの推薦により、官費留学生として再びアメリカへ渡ります

大丈夫かなぁ…
修二がどこかに派遣されると、また世間で何か大変なことが起こるんじゃないかとドキドキしてしまいます。

🎯 師範教育調査の目的

今回の留学は「師範教育調査」を目的としていました。

それは明治政府が進めていた近代学校教育の整備のために、

  • 欧米の教育システム
  • 教師(師範)の育成方法
  • 教育カリキュラム

などを調べるためにアメリカへ調査員を派遣した事業です。

明治維新で武士階級が解体され、「学制発布(義務教育の前段階)」によりすべての国民が学ぶ義務が生まれましたが、日本にはまだ近代的な教師養成制度がありませんでした。

つまり教師が圧倒的に少ない!

そこで「まず教師を育てる仕組みを丸っぽ輸入してまえ!」と考えたのです。

🧳 重たい使命

その「調査員」として白羽の矢が立ったのが、修二でした。

当時、派遣されたのは修二を含めて5人
彼らは“日本の近代教育の土台をつくる”という非常に重たい使命を背負ってアメリカへと旅立ちます。

派遣先は、教育先進国として名高かったマサチューセッツ州
その中心にあったのが、アメリカの師範学校 「フリーミントン師範学校(現在のフリーミントン州立大学)」 でした。

🏫 アメリカでの学び

修二たちはこの学校に通いながら、アメリカの教育現場を見学し、講義を受け資料を集め、現地の教育官僚や教師たちと意見交換もしたといいます。

🗣️ 英語の心配

「そう言えば修二ちん…英語喋れんの?
って心配になるところですが、実は修二ちん。江戸遊学の時も大学南校でも英語を勉強しておりました。

さすが修二ぬかりなし!
しかもアメリカ留学はこれで2度目です!

またこれは飽くまで〝噂〟ですが、修二はあのジョン万次郎から英語の手ほどきを受けていた可能性があります。

ジョン万次郎は、子供の頃に漁に出て漂流、アメリカ船に拾われ渡米。英語や航海術を学び、日本帰国後はアメリカと日本の橋渡し役として活躍しました。

主人公感ハンパねぇ!!
そのジョン万次郎が修二の通っていた大学南校に英語の先生として居た可能性が高いのです。

ただし、直接手ほどきを受けたかどうかは「可能性高い」くらいの話。

もう一つ、史実として確実なのは、修二は2度目の渡米中にアレクサンダー・グラハム・ベルから英語の手ほどきを受けたことです!

「電話」を発明した人です📞
ベルは電話発明だけでなく、聴覚障害者への発音指導の専門家でもありました。

修二はベルに影響を受け、後に日本で聾唖教育を国の制度として正式に取り入れます
なんと修二は――「ベルの実験に参加して、日本語で“電話”の初通話をした最初の日本人」という説もあるのです!

いやー。2度目の留学で世界的偉人に英語教えてもらってるのだから、そりゃ英語はペラペラやん…と思いきや。

渡米当初の修二の英語力は日常会話に困るレベルで、授業も先生が何を言っているのかわからず、後年「…あれはきつかった…」と言っています。

実は1度目の留学でも英語で苦労して、「もう2度と行かねぇ」と思ったところに2度目の留学話。
修二、完全に油断しておりました

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