🎓 留学生の帰国と修二の報告
日本へ戻った留学生たちはそれぞれ、政府に報告をしました。
政府の政策に合致する分野を持ち帰った他の留学生たちが、スムーズに役職やポジションを得て活躍していく中。
それまでの日本にはほぼ無かった〝音楽教育〟を持ち帰った修二に対して政府は…
「…うーん…?」
「…それ使えんの…?」
🔥 熱血大真面目教師 修二の行動
アメリカで日本の未来を見つけた修二は、〝大真面目学級委員長〟から〝熱血大真面目教師〟に進化していました。
きっと彼の瞳孔には炎が灯っていたことでしょう。
そんな修二からの熱い報告を受けた政府は…
「うん…わかった、わかった。じゃ取り敢えず、日本で色々実践してみて、それから考えよっか…?」
なんかなだめる感じで「音楽取調掛」という、新設された部署の裏方ポジションを修二に与えます。
しかし、今の修二は〝熱血大真面目教師〟ですから。
自ら学校関係者や教育関係者たちに声をかけまくり。
学校で音楽の授業の実践を幾つもさせてもらいながら、音楽教育の必要性を説いて行きます。
瞳孔メラメラの修二の熱弁は周りの心にも火をつけ。文部省内にも瞳孔メラメラの音楽教育推進派が増殖。
🌍 ルーサー・メイソン招聘
政府は留学生達の後押しや、瞳孔メラメラに囲まれたのが怖すぎた(多分)と言うのもあり。
修二の帰国と同年の1879年(明治12年)。
なんと修二たち留学生がお世話になった、当時の世界一の音楽教育の専門家。
あの〝ルーサー・ホワイティング・メイソン〟を日本へ招聘します。
修二とメイソンは、ここから音楽教育を学校制度に導入するため、共にカリキュラム作りや教材作りをして行くのです。
💡 音楽教育の課題と挑戦
とは言え〝音楽教育〟は、それまでの日本に無かったものですから。
予算はとても限られたものでした。
またそれまでの日本の音楽に対する価値観から、冷たい視線を向けられる事も多かったでしょう。
「何で今、音楽なんていう実用的でないものに、お金や人員のコストをかけなければいけないのか?」と。
しかし、メイソンという強力すぎるパートナーを得た修二は止まりません。
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