🎵 ルーサー・メイソン&修二のユニット誕生
「近代音楽教育の父」と呼ばれるメイソンと、「日本の音楽教育の父」と呼ばれる伊沢修二のパパ友ユニット
「メイソン&修二」は、破竹の勢いで様々な曲を生み出していきます。
そのスタイルは、メイソンが紹介する世界中の曲に、日本語の歌詞を当てはめて行くというもの。
🌍 海外曲から生まれた唱歌
例えば19世紀ドイツで広く歌われた民謡 「Hänschen klein」 に、日本語の詩を当てはめて
〝ちょうちょう(蝶々)〟爆誕。
スコットランド民謡 「Auld Lang Syne」 に日本語歌詞をつけて
〝蛍の光(蛍)〟爆誕。
フランスの作曲家 ジャン=ジャック・ルソー(18世紀)の作曲したオペラの中の1曲に日本語歌詞をつけて
〝むすんでひらいて(見渡せば)〟爆誕。
海外の曲に、日本の情景を歌詞として入れ込んだこれらの曲は、その歌詞やタイトルを時代に合わせて変化させながら、現代の園児達の心をも熱狂させる超絶ロングヒット曲となっております。
💿 小学唱歌集と全国デビュー
それらを収録したメイソン&修二の初アルバム(教科書)は「小学唱歌集(初編)」と名付けられ。
1881年(明治14年)の先行公開を経て
1882年(明治15年)。
ついに日本教育界の大プロダクション「文部省」から刊行されました。
さらに翌年、1883年(明治16年)。
修二はついに、音楽取調掛のセンター(局長)の座を射止めます。
とは言え、パパ友ユニット「メイソン&修二」はまだまだ下積み時代。
その影響力は首都圏よりも少し広いくらいのものでした。
その後、4年の月日をかけて1887年(明治20年)。
「尋常小学唱歌集」を生み出し、ついに全国デビュー(全国に教科書を配布)を果たすのです!
すごいですねー。
教科書の話をアイドルの成り上がりみたいに話せるもんなんですね。
みなさん、ついてきてますか?
因みにこの時、メイソンは54歳。修二は34歳でした。
んんんだいっぶ遅咲き!!
でもまぁ、これはアイドルの話ではなく。
日本には存在しなかった、全く新しい教育ジャンルの制度設計や教科書制作を、留学から帰ってからたった8年でやっちゃったって話ですから。
物凄いスピードで仕事してるし、修二に関しては若すぎるくらいに若い年齢で達成しちゃった偉業なんです。
そしてそれが、現代にまで続く音楽の授業の土台となるのです。
⏳ 修二のさらなる奮闘と文部省離脱
この時点で、音楽教育の導入は完了したと言ってもいいでしょう。
ここからは「定着と発展」のフェーズに移り、修二は奮闘していくのですが。
4年後の1891年(明治24年)。
修二は突如、文部省に背を向け去って行くのです。
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