📖第18章 西洋音楽で国をまとめた男:伊沢修二の挑戦

📚 修二と唱歌普及の挑戦

尋常小学唱歌集を刊行してから、修二は「曲目の増補や改訂」「教師の養成」「地方普及と抵抗への対応」などをどんどんこなして行きます。

🎶 抵抗とその克服

何の抵抗?」ってね。気になりますよね。

著作権の未払者への取立てでもしてたの?」ってね。

ちょうちょう1回歌ったら1万円でぇ〜す。」ってね。

そんな事はしてません

この〝伊沢修二編〟の初めの方にも書きましたが。
日本にだって音楽が無かったわけではないんです。

その土地その土地で、現代でも歌われている日本古来の民謡や童歌や、それらを奏でる楽器は多数存在します

なのに修二が突然、西洋音楽とその楽器を持ってきて
「今後はこれで行きまーす」
って言われてもね。

我々の誇りを捨てろと言うのか!?」

と。
カッと来るのもわかります。

🎹 西洋音楽の導入と工夫

しかし修二は「誇りを捨てろ」だなんて言っておらず。
むしろその逆。

その土地その土地の誇りを、理解のしやすい五線譜に書き記し。また扱いやすいピアノなどで、ある程度誰でもそれらの曲を演奏できるようにし。
〝その土地〟だけでなく、日本全土に響かせられるようにしようとしたのです。

実際それらの曲は、修二の作った教科書に掲載されていましたし。
西洋音楽に慣れるためメイソンと共に用意した海外の曲にも、日本の情景が浮かぶよう工夫した歌詞がつけられていました。

また西洋楽器は高価で買えないと言う問題もでましたが。それも、国産の安い西洋楽器(オルガンや風琴)の製造を推し進める事で対応します。

修二は説得と、購入しやすい価格の楽器を用意するなどの実務をひたすらに続け。

その内、西洋音楽が〝好きか嫌いか〟と言う議論から、〝西洋音楽という便利な素材をいかに活用するか〟の議論に持って行きました。

実は修二自身、大学南校時代に誰も見向きもしない日本音楽の講義をわざわざ受けるほど、日本の音楽が好きだったのです。

🇯🇵 国をまとめるための音楽教育

なのに西洋音楽をこれほどまでに普及させようとしたのは一貫して

〝国をまとめるため〟

でした。

〝国をまとめたい〟と言う想いは、音楽教育に関わる修二たちだけでなく。当時の政府や教育関係者たちや、その他多くの人たちも持っていたはずです。

ただ。

〝国を「どう」まとめるか?〟

それはその時代その時代の国を取り巻く環境や思想によって大きく左右されます。

⚠️ 明治期の国際環境と危機感

江戸幕府が倒れ。明治政府となってから20年ほど。
当時の日本を取り巻く環境は、まだまだ余談を許さない状況でした。

アジアの国々を次々と植民地にしていく列強国たち。いまだに続いていた不平等条約により、日本も半分植民地状態。また朝鮮半島を巡る清国(中国)との緊張など。

日本は、いつどこかの列強国の植民地にされたり、戦争状態になってもおかしくない状況だったのです。

そのため、富国強兵や殖産興業、教育制度の整備を急ピッチで進め。
なるべく早く文明国として認められる事を目指していました。

🏫 修二の普及した音楽教育の行方

その中で、修二が日本全国に普及させた音楽教育のシステムは。
修二の思わぬ方向に使われ始めます。

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