📖第19章 理想か現実か――伊沢修二と明治政府の衝突

🎶 唱歌集と日本の情景

以前にも紹介しましたが。
修二の作った「尋常小学唱歌集」には海外のメロディもたくさん使われていました。

しかしその歌詞には、それを歌った子どもたちが日本の情景をイメージ出来るよう、工夫がされていました。

自然の四季や村の生活、祭りの光景など、日本の子どもたちの身近な世界を想起させる内容に置き換えられていました。

📖 教育に込めた理想

修二は歌によって子どもたちの情操や道徳心、協調性を育み、日本の持つ美しいイメージをたくさん共有する事によって、豊かな人間を育てたかったのです。

その教育の積み重ねによって、国民としてのを育て、社会や国家のまとまりに貢献することを意図していたのです。

⚔️ 政府との衝突

1891年(明治24年)。
38歳になった修二は、当時の文部省次官と教科書に載せる曲を巡って激しい口論となります。

政府が様々な政策を急ピッチで進めてきたのは、列強国の脅威から早く脱するためでした。

その政府からしてみれば。修二の〝環境を整えて育つのを待つ〟やり方は、悠長に見えたのです。
その時代にはそれこそ、

「なに夢みたいなこと言ってんだ?」

くらいの感じだったと思います。

勿論政府の人間の中には、修二のやり方の方が子供達に良いと思っていた人も、少なからず居たのではないかと思います。

でも。それは飽くまで〝綺麗事〟。

今はそんな事を言っている時では無いのだと。
だから、音楽の教科書の中に、忠君愛国や国への献身を美化するような内容の曲を入れ込もうとしたのです。

〝育てる〟のではなく。
植え付け〟ようとしたのです。

修二にはそれが、どうしても許せませんでした。

💡 修二の主張

修二も、富国強兵や殖産興業に反対していたわけではありません。
ただそれらは、教育によって豊かに人を育てた〝結果〟ついてくるものなのだと。

「優勝劣敗の世界において、各国互に相戦ふ武器は教育より外にない」

武器よりも、経済よりも前に。先ず在るべきは教育なのだと主張する修二の理想。

🤔 理想と現実の狭間

綺麗事〟…。
理想〟…。
修二は時に真面目すぎて。周りの人に引かれたりするような所はありましたが。

同時にとても現実的な人でもありました。
そしてとても賢い人でした。

だからたぶん。修二もわかってはいたと思います。
国をまとめるための綺麗事も理想も。
その国自体が無くなってしまったら意味がないと言う事を。

そしてその綺麗事を、押し通せる流れではないと言う事を。

そして綺麗事を叫ぶ事が。
実質的な政策を進める人たちを
「そんな事は理想だろ!わかっているからもう、言わないでくれ!」
苦しめる事も。

わかっていたのだと、私は思うのです。

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