📖第2章 時代を告げる大砲

🚢 嘉永6年(1853年) 黒船来航

嘉永6年(1853年)。修二が2歳の頃のこと。

浦賀沖(現在の神奈川県横須賀市のあたり)にペリー率いるアメリカ艦隊ーーいわゆる「黒船」が突如現れました。

🎺 ペリー艦隊の軍楽隊

異様に黒光りする蒸気船。
その甲板の上からは見慣れぬ楽器の音が響き、
日本中を恐怖と好奇心で包み込みました。

ペリー艦隊には「軍楽隊(バンド)」が乗っており、
江戸湾に入る際や幕府側との交渉の際に、行進曲や愛国的な楽曲を演奏していたそうです。

🎶 当時の日本の音楽文化

当時の日本には、今のような
「聴いて楽しむための音楽」は、庶民の間ではまだ一部の文化に限られていました。

もちろん人々は歌い、楽器を奏でていましたが、
それは 農作業やお祭り、神社仏閣の儀式など、何かの行為に付随して生まれる「音」がほとんどだったのです。

🌊 黒船の衝撃と日本人の反応

そんな中で、ペリー艦隊の軍楽隊が吹く「パーン!」って鳴るラッパや、規則正しく鳴るドラムの響きは

「んなんっじゃこりゃー!!?」
「何って馬鹿でかい音なんだ!?」
「何でこのタイミングで演奏してんだこいつらはぁぁー!?」

それまでの日本人にとって、西洋の音楽は「音の大砲」みたいなものでしたから。遠くからドンチャカ鳴ってくると、思わず耳を塞ぎたくなるような大きさと派手さで、

「こいつら、音で攻めてきよった…」
と本気で思った人もいたことでしょう。

🏯 鎖国政策と開国論争

「異国が攻めてくるかもしれん…」
「いや、開国せねば国が滅びる…」

当時、江戸幕府は「鎖国」と言う、
「超限定的な貿易政策」をしてました。

それは日本が貿易の主導権を握るための政策だったのですが。逆に言えば入ってくる情報も限定的になりがち…と言うことに。

一応、少ないながらも持っていた中国やオランダなどとの繋がりを通じて情報は集めていたつもりでしたが。

実際に黒船の様な超巨大蒸気船を目の当たりにして幕府も

「やっべ、世界ってこんなに進んでたのか…」
と焦ることになりました。

そして武士や知識人の間では「開国すんの!?鎖国続けんの!?」などの議論が活発になり、時代の空気は不穏さを増していくのです。

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