第3章 お家騒動

👦 少年時代と家庭環境

修二は、他の下級武士の子がそうであったように、10歳頃までは家で学び育ったと思われます

真面目で勤勉で規律正しい。
修二はそんな性格をしていたと伝わっています。

伊沢家はどうやら、かなり教育熱心な家庭だったらしく。

現代でいえば、小学4〜5年生に中学生レベルの勉強を教える教師の父親と。
礼儀作法に厳しいマナー講師の母親のいる家…みたいな?

結果、同級生に対して
「君たち!先生が来られるまでには席につきたまえ!」
とか言うような子になっていたのではないかなと。

よくグレなかったな。

🏫 藩校「進徳館」での学び

そんな環境にいた修二は、
「利発で物覚えがいい」と周囲で評判だったらしく。その後、高遠藩の藩校「進徳館」に入学します

進徳館は高遠藩が設けていた藩校で、主に中・上級武士の子弟が学ぶエリート校でした。

下級武士ながら優秀だった修二は、エリート達の中でいろいろと揉まれた事もあったでしょう。。

イジメられたりしたのかな…なんて想像してしまいますが。

💪 修二の性格と評判

…ただ修二の真面目さはなんと言うか…。
家で喧嘩をしていた弟たちに頭突きをかましてケジメつけさせたり。
「それ違くない?」と思ったら警察ともバチバチに揉めたりと。

ちょっと振り切ってて怖いレベルの真面目さなんですよね。。

きっと上級生や下級生からも、頼りにはなるけど
「怒らせるとやべぇ(面倒くせぇ)やつ」
って感じだったのではないでしょうか。

🏯 高遠藩のお家騒動

そんな修二が14歳〜15歳の頃。
高遠藩内でお家騒動が起こります。

藩主継承をめぐる内紛で、
藩主の内藤頼寧のもとで保守的な体制を維持しようとする「旧体制派」と、
内藤頼直を擁立して改革を進めようとする「改革派」が激しく対立したものでした。

🌏 時代背景と幕府の財政難

このお家騒動。実は日本を揺るがしていたこの時代の影響がとても大きく。

そもそも江戸幕府自体が後期には財政難。
物価は上がるわ、不作続きで米は取れないわで。
そこに黒船来航。

防衛軍備増強のためにさらに支出が増えて、経理の人たちが
「あ、吐きそう」
な状態に。

そのツケを全国の小藩に回されて、全国的に経理の人たちへ
「あ、吐きそう」
が伝播。

元々高遠藩は武士の人口に対して収入が少なく。財政は慢性的にカツカツだったんです。

⚔️ 旧体制派と改革派の対立

そんな状態な上に幕府のツケを回されたりなんやかんやで高遠藩の上層部では、「旧体制派」と「改革派」に別れてバッチバチ

「取り敢えず時が流れるのを待とうぜ!」の旧体制派。
「いや自分らで財源作らな!」な改革派。

✅ 改革派の主導と収束

最終的には若手藩士や実務家が中心で、とにかく現実路線での財政立て直しを模索していた改革派が主導権を握り、
頼寧が隠居、頼直が藩主に就任することで騒動は収束しました。

その後、藩の中心となった改革派が
「優秀な若手を育てようぜ企画」
を立ち上げ、

一目置かれていた修二らに江戸へ遊学する命が下ります。

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