📖第8章 版籍奉還

🏛️ 戊辰戦争後の版籍奉還

戊辰戦争は新政府軍(官軍)の勝利で幕を閉じました。

そして1869年(明治2年)、新政府、すなわち明治政府によって「版籍奉還」が行われます。

これは、全国の「藩主」が自らの領地(=版)と人民(=籍)を天皇に返上し、以後は「知藩事」として明治政府から任命される立場になるという、画期的な制度改革です!

👑 藩主から知藩事へ

「ほぉ〜ん…」
「で、何が変わったん?」

って思う人も多いと思います。私も思いました。この辺ややこしいんですよね〜。。

だって、江戸幕府の時も藩主は幕府の臣下だったんでしょ?と。名前が「藩主」から「知藩事」に変わっただけじゃね?と。

実際、明治政府も
「実質変わるのは名前だけだよ〜。ね?あ〜んしん!」
って言ってたんです。

しかし。藩主たちの多くは「これは単なる名目の変更だけでは済まない」と感じていたはずです。

それはなぜか?

イメージで言えば、「藩主」というのは、小さな国の“国王”のような存在でした。軍隊も持ち、法律も独自に決められる、自分の領地を治める実権を持った“支配者”です。

そして、そんな小さな“国”たちをまとめ、力と制度で従わせていたのが「幕府」。幕府は、いわば全国の国王たちを束ねる“親分”のようなものでした。

つまり、江戸時代の日本は大小の国々がゆるく連携していた「藩連合国家」のような構造だったんです。

大政奉還後、いきなり「藩」が潰れてたりしなかったのは「藩」が独自の「国」のような存在だったからです。

それに対して、版籍奉還後に任命された「知藩事」はもう“国王”ではありません。彼らは中央政府(明治政府)から命令を受けて働く、“地方の管理職”

⚖️ 改革と圧力の現実

「名前が変わるだけ〜」

なんて耳障りの良いことを言ってても。
実質行政を取りまとめる役であったとしても。
所詮は管理職

殿様として支配者の威厳たっぷりに、自ら髪の毛を剃って髷を作ってた立場から。
支配者としての権限とともに、管理職としてのストレスで、髪を剃らなくても自然と抜ける立場になっていくことは分かってたんですね〜(ハラハラ…涙)。。

「国王なら、版籍奉還なんて命令聞かなきゃ良いじゃん」って思いますよね。聞くしかなかったんです。。

まずこの〝版籍奉還〟は命令ではなく、藩主達の「自主的な申し出」という〝形式〟で行われたのです。

「じゃあ申し出なけりゃいいじゃん」って思うのですが。

戊辰戦争や明治維新で活躍し、明治政府で中枢を担っていた薩摩藩や長州藩、土佐藩、肥前藩が率先して版籍奉還に応じたんです。

そして。

「俺らがやったんだから…。お前らも、やるよな…?」

って、空き地でリサイタルを開催する人的な圧をかけたんです。

断りにくいですよね〜。

また版籍奉還を断る=天皇の命に背く=逆賊になりかねない空気や。

多くの藩は江戸幕府後期からの財政難や人材不足、民心の不安定さを抱えていて、「これ以上の改革や軍事衝突は無理〜」な状態。なんか怪しいな…と思ってたとしても、言うこと聞くしかなかったんですね…。

世知辛ぇ…。

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